音楽劇「銀河鉄道の夜2020」を観た話

千秋楽が終わってもう抜け殻です。

応援している方の初主演舞台で力いっぱい拍手を贈れたことに胸がいっぱいで、とにかく応援してきてよかった、続けてきてよかった、ここまで来なければ見られなかった景色を見せてもらった、そんな気持ちです。劇場から出ても涙が止まらなくて泣いて道を歩く変な人でした。

 

 

勉強不足なので見当違いなことをたくさん言ってると思います。自分がメモしたことを後で思い返す用にまとめただけのものなので色々目をつぶってくださるとありがたいです。

 

「ちょっと上へ登ってみたくなってね」なたつなりくん

まず思ったことは、やっぱりたつなりくんのお芝居が好き!!

今まではどんなに舞台上に人がいても目を惹いてしまう圧倒的な存在感に魅力を感じていたのだけど、今回のジョバンニはひと味違くて、何と言えばいいのか突出しない

朗読や配信の作品もあったけど銀河鉄道の夜はたつなりくんの初主演で、初座長で、主人公で1番出番が多くて......。なのに馴染んでる。

これってハイキュー‼︎の影山くんで言うところの「目立たない良いプレー」なのかなと思いまして。「攻撃が淡々と決まって見えるのはセットされた球が混じり気なく『良いセッティング』だからだ。打つ奴も観てる奴も何も違和感が無いっていうこと。」のアレです。

たつなりくんのジョバンニ、佇まいにすごく説得力がある。ギラギラと強い光を放っているわけじゃないんだけど当たり前にそこにいる。

はあ〜〜〜すごい。なんか「ちょっと上へ登ってみたくなってね」状態。関東氷帝乾貞治か。

 

かと思いきや強烈なサーブも打ち込んでくる。

例えば「こぼれたものは何でしょう」。たつなりくんの真骨頂ですよね。ほんとすき。あと「ザネリなんか毒虫だ!」とか「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」とか。一気に空気をひっくり返してお芝居に引き込んでくる。

 

牛乳瓶の話

孤独なジョバンニ

牛乳瓶に天の川が入っています

乱暴者の箒星がやってきて

牛乳瓶を倒しました

かぷかぷ かぷかぷかぷ

こぼれたものは何でしょう

 

ここ大好きなシーンです。年老いた女の人の「いま誰もいないのでわかりません」からもう好き。

原作を読んでいたときは何気ないシーンだと思って読み飛ばしていたのですが、音楽劇だと結構肉付けされていました。

この後ジョバンニが銀河鉄道に乗る前に台詞のフラッシュバックがあって、無意識のうちにジョバンニを追い詰めてしまった言葉が並びますが、それの最後が「ではもう少したってから来てください」なんだよね。ジョバンニが折れる最終的な決定打はザネリと周りの子たちの「いーけないんだいけないんだ らーっことっちゃいけないんだ」だと思うんだけど、ジョバンニは年老いた女の人の言葉がかなりグサグサと心に刺さったんじゃないかと推測してしまうのですが、

ここでアメユキみたいに「ジョバンニィ〜」と声をかけたくなるポイント。

自分のとこに牛乳の配達がなかった上にあんなに散々な物言いまでされたのに、「では、ありがとう」で帰るって!もっと言い返せばいいじゃん!とつい思ってしまうんだけど......。

最初はジョバンニが優しい子だからだと思っていたけど、本当は言い返せないんだよね。

学校にいるときもそう。もう少し言い返したらいいじゃない、「やめろ」って言えばいいじゃない。

活版所であんなに目を輝かせてタイタニックに夢を見ていたなら「タイタニックって聞いたことあるか?」って言われてお前たちが知るより先に知ってたって言い返せばいいのに!

大学士に「おや、君の友達は?」と聞かれて咄嗟に「すみません」って普通子どもがするやりとりじゃないよね?!

ジョバンニは「やめて」が言えない子か......。これは壊れていくよ。妙に大人びてるのが逆に悲しい......。

 

というか原作の「では、ありがとう」ってもっと素っ気なく言ってると思ってたの!でもたつなりくんの「では、ありがとう」ってとっても優しい!もう嘘でしょ......。それと2幕で牛乳をもらっての「すみません」「いいえ」も同様に。こういうところがたつなりくんがジョバンニを演る意味なんだなあ。好き。

 

牛乳屋の場面だけじゃなくて、学校でも活版所でも家でもこの子は周りに気遣ってるなあって思う。活版所でも1番下っ端だろうし「すみません」とよく謝ってる。本当ならばザネリや取り囲みの子たちのように遊んでお祭りに行って学校という狭い社会の中で生きていていいはずの年齢なのに世間を知っている感がある。それがジョバンニの孤独に繋がってるのかなあなんて思いました。

原作を読んだだけではここまで考えなかった。

 

牛乳瓶が満たされる

そして銀河鉄道の旅から帰ってきて再び牛乳屋さんに行くシーン。今度はすぐに男の人が出てきて「すみませんでした」と謝られながら満タンの牛乳瓶を受け取る。

ここのたつなりくんジョバンニの表情、微笑みを浮かべて満足げに牛乳瓶を見つめるのが1幕と対比されていていいなあ。

 

「こぼれたものは何でしょう」ってジョバンニの心のダムが決壊する感じ。ジョバンニは優しくて穏やかで母親思いのいい子だなって思うんだけど、じわじわと周りからの負荷に耐えきれなってついに「毒虫だ!ザネリなんか毒虫だ!ザネリなんか溺れちまえ!舟なんか沈んじまえ!」の叫びになる。これが皮肉なことに現実になってしまうのが本当にやりきれないところ......。

 

しかしこの牛乳瓶の会話が決壊のトリガーになるのが意外だったんですが、原作を読み返したら年老いた女の人は「赤い眼」をしているんですね。宮沢賢治における「赤い眼」は悲劇性、不吉なことが起きると予兆させるものという説があるのでなるほどね!と納得。

赤に関して印象的なのがタイタニックの発破のシーン。客席に向かって赤い閃光が走る。この後“赤い目玉の蠍”って星めぐりの歌が入る演出秀逸すぎませんか?!

 

夜の帳が下りる、オープニング

物語の最初、アメユキが歩いてくる場面。最初は森なのかな。そこでアメユキが腕を広げるとトレモロの厚みが次第に増して、音を放つと一気に夜の帳が下りて銀河の世界になる。

これが見事で好きです。

 

プリオシン海岸のオリジナル台詞を文字に起こしたい

ここの場面は舞台オリジナルの台詞が多いですね。しかもカムパネルラの“ほんとうにいいこと”への葛藤や生きている証明に繋がる大事な台詞なので全部文字に起こしたい!

カムパネルラの「確かにあったのに、確かに生きていたのに!なくなってしまうんですか?!」なんて芯をつきまくってるし。

 

銀河鉄道でジョバンニとカムパネルラが出会ったときのジョバンニなんてまさに「目立たない良いプレー」だと思うんですよ。カムパネルラとの距離感を測ってる感じ。「ザネリはもう帰ったよ」のとき、カムパネルラには分かっていて自分には分からないことがあると分かりながらカムパネルラのそばに寄り添う。
こういうところがたつなりくんすごく丁寧。ジョバンニルートで起きていない事象についても丁寧に関与して、だからその場にいるし役が生きてる。

 

明滅する苹果

1幕の最後、苹果が宙に登ってジョバンニとカンパネルラが交互に「光った」「消えた」を繰り返す場面。あれは“春と修羅”で言う「明滅」のメタファーなのかなと思いました。

音楽劇「銀河鉄道の夜2020」で“春と修羅”が用いられて印象的だった場面が2つあって、1つ目は1幕ラストに赤い苹果が宙に登っていく場面。2つ目は2幕ラストにカンパネルラが死んでザネリが毛布に包まっている場面。

どちらもケンジの「ひかりはたもちその電燈は失はれ」で途切れるんだけど、前者と後者で続きが違う。

前者でカンパネルラは絶望したように慟哭する。電燈(命)が失われる=「死んだらカムパネルラが生きていた証はなくなる」ことに絶望しているのかな。

これは「おっかさんは僕をゆるしてくださるだろうか」から始まる“ほんとうの幸い”に繋がっていて、「ほんとうにいいことをしたらおっかさんは許してくれると思う」とカンパネルラは言うものの、この時点で自分が死んでザネリを助けたことがほんとうにいいことなのかは自信がないようだった。だから「その電燈は失はれ」でカンパネルラは死によって自分が生きた証がなくなってしまうことを恐れたのではないか。

対して後者ではジョバンニが笑う。これは死を超えてなおカンパネルラが生きた証は残るとジョバンニが確信したからではないか。「僕たちどこまでも一緒に行こう」って普通だと場所の共有だけど、第四次空間的に言うと違う場所にいても時間を共にするような印象を受ける。残された者の務めは心に残すこと。「その電燈は失はれ」ても残された者の心から消えることはない。だから“明滅”なのだと思う。完全に消えるのではなく「光った」「消えた」になる。

 

切符の話

その前に活版所で登場する記事の見出しは

アインシュタイン特殊相対性理論を発見

・ミンコフスキーが四次元空間の概念を発表

・豪華客船タイタニック号出航

で、タイタニックがこの後ピックアップされるのは言わずもがななんですが、あの素晴らしい脚本演出で!最初に出しておいた言葉を意味のないものにするはずがない!と思い注目すると出てきました、「第四次」が。

鳥捕りがジョバンニの切符を見て「こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさあ、あなた方大したもんですね」と言ってる!

これ奇妙なことがあって、銀河鉄道に乗ってる人は何らかの理由ですでに亡くなった人たちということを前提にすると、今朝の新聞に見出しがつく「第四次」という言葉がこの世界の先の住人らしき鳥捕りの口から出てくるという矛盾です。この型にはまらない感じが鳥捕りらしいし、地球温暖化や日本の農業の衰退を予測していた宮沢賢治が書いた物語だと思うと何の違和感もないというか笑

 

ところで鳥捕りの切符は小さい紙切れですぐ近くの観測所のあたりで降りないといけないのに対し、カムパネルラのは鼠いろ、ジョバンニに至ってはもっと大きな緑色の切符。ジョバンニの切符はどこまでも行けると言われます。切符の大きさはどこまでいけるかに関係しているのかなと思いました。

 

“新世界交響楽”と“そらや愛やりんごや風”

どうしようもなく泣けてくるシーン。

苹果ってキリスト色が強いし宮沢賢治の“いい匂い”は宗教的だという説もありますから、“そらや愛やりんごや風”の歌はパイプオルガンの音が鳴っているのも相まって賛美歌のようで、タイタニックでギュッとなった心を安らげてくれるようでした。

 

「けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい」「ああ本当にどこまでもどこまでも僕と一緒に行く人はいないんだろうか」の後、たつなりくんの“目立たない良いプレー”が炸裂しますよね!

俯いてしまったジョバンニを見遣って苹果を差し出す少女。毎回微妙に違うお芝居になっていましたが、一度は目を背けて受け取るのを拒否するものの、「ほら」と優しく促されて両手で包み込み、それでも受け取れないよと切ない表情で「ありがとう」と言ってそっと少女に返す。

ん〜〜好きでしかない。ここの一連の流れずっと見ていたい。

 

そしてわたり鳥が飛んで、「行くところかしら、帰るところかしら」「きっと故郷へ帰るんだ」「この汽車は?行くところ?帰るところ?」「帰るところでしょうなあ、故郷へ」とありますが、原作だと「新世界交響楽」が流れていると書いてあるのではっとしました。2楽章の“家路”ですね!しかもWikipediaを見たら歌詞の“home”にはキリスト教的な、死後に救済された魂が赴く場所としての「天上の故郷」という意味も重ねられているとあって、なるほど!

 

僕たちどこまでも一緒に行こう

これはサーブの方です。たつなりくんの真骨頂。それでいて心のルートを緻密に辿っているので総じて最高。

カムパネルラが野原におっかさんを見つけて2人が別れる最後の「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうね」って後ろにいるカムパネルラに意識がありながらもジョバンニは目の前の光景から目が離せない。これがたつなりくんものっっすごくうまい!

 

今夜は特別輝いてますね

ジョバンニのお父さんがまもなく帰ってくると伝えた後夜空を見上げながら「今夜は特別輝いてますね」と言い残して去っていく。

ここで汽笛の音が入るのが、お父さんもカムパネルラが銀河を旅して今も夜空にいると分かっているようでとても泣けてくる。もしかしてジョバンニとカムパネルラの間に起きた夢のような本当の旅を知っていたりして。

 

「証明してくれるかい?」「うん!」

木村達成さんって役者さんすごくない?

「僕たちどこまでも一緒に行こう」からこっちは泣いてんのよ。そこから怒涛の芝居が続くよね。“手足”が始まったところからもうすごいのよ。

 

だいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶだいじょうぶ......

胸に手を当てて目を伏せるだけでこんなに心を掴んでくる役者がいるか??1個ずつ心に浸透していってる。

 

ジョバンニが生きていく世界

千秋楽で特に感じたんだけど、“手足”のときジョバンニはずっと天上のカムパネルラと会話してるなと思った。でも同時に周りにいる学校の人たちやおっかさんや活版所の人のことも見渡してる。

ジョバンニが生きていく世界はここなんだよ。今までと同じ人たち。でも明日からは少し違うかもしれない人たち。千秋楽にしてグッときちゃった。

 

「うん」

「うん」でこれだけ泣かせる役者がいるか?!千秋楽が今まで見たことないやつで最後の最後にまたやられたーー!!ってなりました。

ラストのジョバンニの表情を見ると「未来」って言葉が思い浮かぶ。「大丈夫だよ」とも聞こえる。霊廟のベンヴォーリオを見るのと似た感覚になるのは両者とも残された者だからかな。

 

 

最初の数回は素晴らしい物語や演出、音楽に目がいってしまって、役者さんの芝居の妙に注目し出したのが実はラスト数回だったということに千秋楽まで気づかないほど作品にのめり込んだ3週間でした。濃度の高い時間を過ごさせてもらいました。

知れば知るほど答えが遠くに行ってしまうような感覚で、もっと観ていたかったです。

いつも素敵な世界に連れて行ってくれるたつなりくんありがとうございました。本当にお疲れ様でした。