ベンヴォーリオは慈愛

 ロミオ&ジュリエット2019の東京公演が終わりました。

 

 2019年版に応援している俳優さんが出演されることが決定し、今年初めてロミジュリを観劇しました。最高だった…!3時間があっという間で楽しかった!何度でも観たいと思える舞台に出演してくれてファン冥利に尽きます。まだ刈谷公演と大阪公演が残っていますが、一区切りついたのでまとめておきます。

 

2月24日 大野・木下・木村・黒羽・廣瀬・大貫

3月2日   古川・葵・木村・平間・渡辺・大貫

3月3日   古川・生田・木村・黒羽・渡辺・大貫

3月10日 大野・葵・木村・黒羽・廣瀬・大貫

 

 

ベンヴォーリオとマーキューシオ

マーキューシオ

 マーキューシオって大公の甥っ子なんですね。いい家柄の血を引いているものの、血の気が多くてクレイジー。いとこ同士のロミオとベンヴォーリオとは親友でも、どこか一線を画していて、モンタギュー一族の2人と自分との間に破れない壁のようなものを感じました。彼の最期のセリフに「俺は恨む お前の家を!モンタギューとキャピュレット」という印象的な言葉がありますが、親友だったモンタギュー家の二人に、笑顔で、その言葉を吐くのがつらくて。どちらの家にも混ざれない。「もうおしまいだ!」と言い放って先陣切ってティボルトに戦いを挑むものの、闘いの最中の表情は苦痛で歪んでいて、葛藤している。それは自分でもなぜ憎しみ合わなくてはならないのか、自分が何のために戦っているのかが分からないゆえの葛藤なのではないかと思います。

 今まで諍いを繰り返してきたキャピュレット家との決着をつけることが決闘の名目上の理由なのでしょう。しかし、そもそもマーキューシオが決闘する引き金になったのは、ロミオが敵方キャピュレット家のジュリエットと愛し合ったことで、ヴェローナに生きる彼が持っていた「キャピュレットは憎むべき存在で、戦うことは宿命」「ティボルトからされてきたことへの報復をする」という彼のよりどころが崩されたことではないでしょうか。(実際「決闘」の歌詞を聞くと、マーキューシオはティボルトにかなりひどいことを言われてきたようですから)

 

 さらに、彼がよりどころにしてきた「キャピュレットと戦うことは宿命」ということについて。ティボルトへの恨みはあったものの、家柄同士の争いなんかはマーキューシオにとって割とどうでもいいことで。実は何者にもなれない自分の、行き場のない憤りを紛らわすためのものだったのかなと思います。それをあっさりとロミオに崩された。モンタギューの象徴であったロミオに。しまいには、「誰もが自由に生きる権利がある」と訴えられる。

 

ベンヴォーリオ

 この「誰もが自由に生きる権利がある」という言葉について。この歌詞のパートは、ロミオとベンヴォーリオのハモリ=2人それぞれの訴えなんですよね。「長年続いてきた両家の争いから解き放たれて、平和な世の中を作るんだ」「誰と愛し合ってもいいんだ」と訴えるのがロミオならば、ベンヴォーリオが訴えたかったことって何でしょうか。

 ここでたつなりくんがアフタートークで話したことを思い出すのですが、演出の小池先生いわく、ベンヴォーリオはロミオではなくマーキューシオ側、マーキューシオに寄り添う人物なんですよね。

 

 たぶんベンヴォーリオはマーキューシオがモンタギューに染まりきれていないと感じていることに、そしてそのことでマーキューシオが葛藤していることに気付いているんだと思います。1番そばで彼を見てきたから。「家柄にとらわれる必要はない」「誰かを愛する心は縛られない」ことがロミオの言う「誰もが自由に生きる権利」だとするならば、ベンヴォーリオが歌う「誰もが自由に生きる権利」はマーキューシオのこれまでの生き方の肯定ともとれるのかもしれない。宙ぶらりんゆえにままならなくてどうしようもないという気持ちを闘いにぶつけるしかできなかったマーキューシオ。そんな彼の生き方が正しかったのか否かの是非はここではひとまず置いておいて、きっとベンヴォーリオはマーキューシオの生き様を否定できないと思う。彼の生き方をまるっとひっくるめて「マーキューシオ」なんだと肯定しているんじゃないかな。

 私はたつなりくんがベンヴォーリオの回しか見ていないので、偏った解釈になっているかと思いますがご了承ください。ただ、たつなりくんのベンヴォーリオが本当に優しい人だったことは確かです。倒れたマーキューシオを抱きしめるベンヴォーリオの腕の優しかったこと!私のなかのベンヴォーリオ像は「慈愛」です。

 

狂気~服毒

 そしてこの場面とのちの「狂気~服毒」「どうやって伝えよう」ではベンヴォーリオの考え方は変化していますよね。マーキューシオの葛藤に気がついて気がかりに思うことはあっても、両家の争いがどうだとか、自分はどうしたいとか、そういったものは以前のベンヴォーリオにはそもそもなかったんじゃないかな。

  たつなりくんのベンヴォーリオを見ていると、まだ大人になりきれていない子供なんだなという印象を受けました。何も考えずに世の中の流れに流されているような。周りの大人たちが争っているから俺たちも争うんだ、みたいな。人はそもそもわからないことに疑問を持つことはないですから。「これでいいのかな」と疑問に思う以前に、「これが俺の生きる世界だ」と、それ以上でもそれ以下でもなかったんじゃないかな。

 

 そんな彼が初めて自分で決断して実行に移した行動が、ロミオにジュリエットが亡くなったと伝えること。「どうやって伝えよう」のたつなりくんが最っっっ高なのはTwitterで散々言っているのでここでは割愛します。最高の「どうやって伝えよう」を歌いあげた後の「ジュリエットは…亡くなったよ……?」の言い方がこれまた最高ですよね?なんて優しいの?声が上目遣い(声が上目遣い)。たぶんベンヴォーリオが出せる1番の優しい声で伝えたんでしょう。ロミオにとって1番酷なことを。

 

 

どうやって伝えよう

昨日までの俺たちは 世界治める王だった

今日の俺たちは 誰一人生き返らせることはできない

誰一人 ジュリエットさえ

(誰一人 マーキューシオさえ)

 

 この「ジュリエットさえ」「マーキューシオさえ」っていうのが悲しい。「さえ」ってとるに足らないものに使う助詞だけど、ベンヴォーリオはわざと「さえ」っていうことで自分の悲しみを紛らわせているんじゃないかな。自分とそんなに関わりがなかったジュリエットはともかく、マーキューシオが「さえ」で事足りるはずがないじゃない!自分は平気だと自分に言い聞かせたいように聞こえる。

 

 それから「世界の王」と対になっているのがまた辛い。「世界の王」で「年寄りが寝てる間に」とか「大人の力に負けたりしない」って言ってる時点で、この世界で力を持っているのは大人だって無意識に分かっているということですから…皮肉なことに。マーキューシオの死によって自分たちの無力さを実感したんですね。

 

 そしてここのたつなりくんが最高だっていうことはTwitterで散々言っているので割愛します。(再び)最高です。たつなりくんありがとう。「昨日よりは今日 今日よりは明日 明日よりは未来 そこが行き着く場所さ(日に日によくなっていることの意)」最高を更新しているよ。

 

 

ジュリエットの死

 劇中を通して、「死」の存在にぞくっとすることが何度もありました。初日観劇前に前作のゲネプロや歌唱披露の映像を何度も何度も見ていて、有名な「エメ」は歌えるぐらい聴いていました。そして迎えた初日。1幕終わりの結婚式の場面で、「ここでエメくるな??」ぐらいの気持ちでわくわくしていましたが…。幸せそうに愛の歌を歌うロミオとジュリエットをじっと見ていて、ふとステージ全体を見たとき。上から「死」が見下ろしているじゃないですか!怖い!まさかここで「死」が忍び寄っているとは!こういう演出ぞくっとしますね。好き。

 そしてもう1つぞくっとした場面が、「ジュリエットの死」です。ロミオが死んでいるとまだ気づいていないジュリエットが夢見るように歌う曲ですが、「ロミオ ロミオ」と繰り返すきれいな旋律にバスドラムの音が入るのが…!忍び寄ってますね!!しかも小節の頭じゃなくて気持ち悪いタイミングと気持ち悪い間で入るズドンとしたバスドラが大好物です。

 

 

罪びと~エメ

 悲劇の物語の最後に流れるのはエメ。愛で包まれた世界で終わるのが優しさ。両家のお母さんたちのデュエットの後に、残された人たちで歌いあげる「ロミオとジュリエット」って響きが優しくてたまらない。この物語のテーマを朗々と歌い上げている。これは悲劇を超えた次の世代につながる愛の物語なんだということを意味づけていると思いました。ロミオとジュリエットの死が、一つの争いの時代の終止符であり、悲劇は終焉を迎える。

 ベンヴォーリオの「今、許しあおう」が本当に最高!!しかもたつなりくんぼろぼろ泣いてるからもうたまらないですよね。ベンヴォーリオがモンタギューとキャピュレットの両家のものの手を取り合って結びつけている。ヴェローナの未来を築いていくのはベンヴォーリオ。私は「ベンヴォーリオは生き残る」に一票です。

 

 

 まだまだまとめきれていないので大阪の大千秋楽が終わったらまた書きたいと思います。ロミオとジュリエットのこともあまり触れられなかったし、好きな曲はたくさんあります。取り上げたいところが多すぎる。

 次は刈谷ヴェローナのアフト回に行くので、どんなお話が聞けるのか楽しみにしています!