『貴方なら生き残れるわ』を観劇した話

翻訳者で児童文学研究者の松岡亭子は「子どもと本」(2015.2.20、岩波新書)で次のようなことを書いています。

井上ひさし氏は、ニュースで、犯人がつかまったと知ると、ほーっとためいきをつくのは、これでひとつの物語が完結したというためいきであり、人間は何もかも物語にしなければ気のすまない生きものなのだと述べておられます。そして、人がそういう存在であるのは、めいめいが自分という物語を生きており、その物語の先が見えないからだ、と。人が文学に求めているのは、自分という物語の先に少しでも光をあててくれることだ、というのです。

 

 

 

 

2018年に彩の国さいたま芸術劇場で上演された劇団た組さんの『貴方なら生き残れるわ』がYouTubeで期間限定配信されています。

 

最近この本を読んで胸にストンと落ちたことと、『貴方なら生き残れるわ』の配信のタイミングがうまく重なり、あのときにうまく言葉にのせられなかった想いをいま一度言語化するいい機会だと思ったので少し書きたいと思います。

 

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この作品は2回観に行きました。

途中からずっと涙が止まらなくて、涙で役者さんたちの表情がぼやけていたのをよく覚えています。でも、物語の結末がどうしても思い出せなかった。

松坂は東京で仕事を辞めたんだった。

吉住さんは推薦をもらって大学に行ったんだっけ?

沖先生はずっとバスケ部の監督を続けたんだっけ?

みんなの顔やバスケしている姿は思い浮かぶのに、「結局どうなった?」という記憶は飛んでしまっていたんです。

 

結論から言うと、今映像で見返して、それでいいんだと思えました。それでいいんだというのは、彼らがなにを選んでどうなったかは、そんなに気にするところじゃなかったということです。

 

なぜかというと、自分が学生だったときもそうだったから。

やっている最中は結果を求めてあがくけど、あとになって残るのはその過程で、結果は案外どうでもよかったりする。大人になった今だから思えることです。

 

個人練のときいつも座っていた椅子、遅くまで練習したホールの匂い、先輩に低音が綺麗だと褒められたこと、後輩と比べられて悔しかったこと、ソロで緊張して息が吸えずフレーズを切ってブレスしてしまったこと、悔しくて泣いたこと。

自分のことになりますが、小中高と9年間吹奏楽を続けてそんなことばっかり鮮明に覚えていて、高校の最後の大会のあと、自分が何を思ったかがあやふやです。

コンクールで結果を残したことや9年続けたことでどんな学びがあったかよりも、途中にあったあれこれに目がいくのです。

 

バスケの才能がないのがわかっていて、「彼女が欲しいから」とみんなに納得してもらえるような理由をつけて勉強しなくちゃと言う當座さんや、才能があるのに「やりたいことを見つけた」と言って大学に入って1年でバスケを辞めた吉住。その他大勢も。

将来バスケで食っていくために部活をしているんじゃない。試合で負けて引退したら、たぶん、もう二度とバスケはしない。なのに、どうしてバスケをするのか、どうして最後の試合で熱い表情をするのか、どうして負けて悔しいのか。

 

 

 

 

 

松岡亭子は「人は文学に『自分の物語の先』を求める」といいます。しかし、それは裏を返せば、「自分では『自分の物語の先』はわからない」ということ。

 

物語のラスト、松坂は「自分の物語の先」がわからなくなったから体育館に戻ってきたんじゃないでしょうか。どうしようもなくなったときは答えが欲しくなります。正解を知りたくなります。松坂はきっと体育館に答えがあると思った。

 

『貴方なら生き残れるわ』の世界に生きるバスケ部、先生、野球部の人たちはみんな、誰しもが心の奥底に隠している「あのときの私」に寄り添います。学生時代の、言葉にしようのない心の機微をもって描かれているあの人物たちは、紛れもない過去の私だ。

吉住くんに「お前のバスケをするんじゃないのかよ」と詰め寄られて、ままならない自分の不甲斐なさを知りながらもうれしかった沖先生も、あと一歩吹っ切れなくて、吹っ切ってみたら失敗したやまぴーも、ずっと人と比較され将来の不安に押し潰されそうだったけど、吉住に「お前がいろ!」と求められて、脅迫のような肯定に居場所を与えられた當座さんも。

この作品を観て心がグサグサ刺されるのは、彼らが、誰しもの心に巣を食う「あのときの自分」だからではないでしょうか。

 

 

またもう一つ面白いと思ったのが松坂と吉住の扱い方です。

『貴方なら生き残れるわ』のHPで先に公開されていたあらすじを読むと松坂が主人公なのだとわかります。

松坂は母校の体育館にやってきます。
そのコートで、失った熱量を懐かしんでいると先生に会ってしまいます。
先生は言います。元気か。
松坂は言います。まあまあです。
そして松坂はシュートを打ってみなと促されます。
促された松坂はシュートを打ちます。打って、それから、謝ります。
バスケット辞めてごめんなさい。
松坂はバスケットを何も言わずに辞めたのです。
誰も知らないまま、辞めたのです。
ただ、バスケットを辞めたのです。
たかだか、バスケットを辞めたのです。
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実際、物語も松坂が誰もいない体育館にやってきて、沖先生と長尾先生と会話をする場面から始まります。しかし物語が進むにつれて、圧倒的にスポットの当たっている人物に観客は気づく。それが吉住です。

バスケの才能が抜きん出ている吉住を軸にストーリーは進行していき、彼が主人公かのように最後の試合までたどり着く。試合が負け、吉住の嗚咽とともに舞台は冒頭の場面に戻る。

ここで観客はこの物語の主人公が松坂だったと思い出すはずです。

この「主人公の転換」は観客をはっとさせるでしょう。

松坂は自分のことを「本当は普通なだけなんだと思う」と称しますが、そんな松坂を主人公にしたことにこの作品の意味があるとも言えると思います。

 

人生の答えを求めて体育館に帰ってきた松坂と、ここまで2時間弱のあいだ、物語の答えを求めて劇場に集まった観客への答えは、沖先生の次の言葉です。

「今をよかったって思えるようにしていくんだよ」

「選んだものを正解に変えていくしかないんだよ」

 

誰だって「自分の物語の先」はわからない。それは沖先生も同じだけど、松坂より長く生きている沖先生のあり方。

この言葉が好きです。先はわからないから、今を生きよう。漠然とした不安に対面して、どれだけあがいても苦しくても、「あのときこんなことあったよね」と笑えるように。

 

 

 

 

 

普段、舞台は出演される俳優さんで観る作品を決めていて、なかなか彩の国さいたま芸術劇場のような小劇場で観劇することがないのですが、観ることができてよかったと心から思います。素敵な作品に出会わせてくれてありがとうという気持ちでいっぱいです。